どうも「おおきんな」の管理人「魔王」です。
このページでは当ブログ「おおきんな」の管理人「魔王」のプロフィールや名前の由来などを紹介します。
管理人「魔王」の波乱の人生
管理人名 「魔王」(まおう)
誕生日 1968年4月10日
出身地 三重県松阪市
国籍 日本
最終学歴 工業高校卒業
小学校4年生から始めた野球が楽しくて高校卒業までひたすらボールを追いかける青春。
大学進学の推薦もあったが全力で断る。
体育会系の大学へ行って野球部に入りまた一年生をやるのは絶対無理。
高校卒業後、コネもあったのでNTTに就職しようと入社試験を受けるが見事に不採用。
さすがNTTの人事担当は人を見る目がある笑
高校に来ている就職案内から適当に探した地元では当時大手だった家電販売店に就職。
入社後いかに売上を上げるかに没頭して顧客対応が楽しくなってくる。
半年後には高卒の新入社員であるにも関わらず県内各地の総販売店の白物家電販売担当の売上ナンバーワンに上り詰める。
その頃から大手家電メーカーの担当者から弊社の商品を積極的に売って欲しいと袖の下を渡されまくって社会人ってちょろいなと勘違い始める。
売上の数字は相変わらず好調であったが一年ほどで飽きて来て、仕事より週末の夜遊びが楽しくて土日休みの仕事に就きたくなってくる。
その頃、松下電器産業(現在のパナソニック)で大々的に社員募集があり、応募するがまたしても見事に不採用。
さすが、パナソニックの人事担当もNTT同様に人を見る目に長けている。
家電販売店からは好きな支店で好きなポジションを与えるから残って欲しいと引き留められるもそんなことには興味も湧かず地元の自動車部品関係の工場作業員に転職。
入社後にその会社の地元の工場は支社で本社は愛知県にあることを知る。
そして愛知県の本社に配属。人生初めて実家を出て寮ではあるが一人暮らしが始まる。
時代はバブル絶頂期。
工場の仕事は覚えたら誰にでもできる作業ばかりではっきりいってつまらん仕事やけど給料は良い。
その工場、朝一番はラジオ体操から始まるんやけど、上司はみんなその日の生産数や出荷数のすり合わせで誰も社員や期間工やパートが時間通りに出社して来てるのかなんてことは確認していないことに気づく。
チームでの作業仕事は午前中はほぼ自分のやることはない。
これは午前中は工場に出てこなくてもチーム内で問題なかったら大丈夫なんじゃないかってことに気づく。
チーム内、年の近い社員仲間、期間工、パートのみんなへの根回しを完璧にして昼から工場に出勤するようになる。
そして夜は飲み屋でバイトを始める。
なんども言うがバブル絶頂期。
フルーツ盛り合わせを豪華に盛っただけで一万円札のチップがもらえた時代。
夜の仕事が面白くていつの間にか夜の仕事の給料が工場の給料を超える。
だが稼げど稼げどお金は車の改造費に消える。
それどころか借金がどんどん増える。
が、毎日楽しくて仕方のない日々。
嗚呼若いってすばらしい。
夜のバイトをしていて、その頃人生で初めて自分って結構モテるんじゃないのか?って勘違い始める。
勘違いの力はほんま恐ろしい。
昼間は工場の社員食堂で片っ端から女子社員に声をかけまくりコンパの段取りをする。
事務職の女子社員だけでも1000人以上いるマンモス工場やったからネタに困ることはない。
そして夜は夜で夜の蝶に甘い言葉を囁く。
自分の中の男が一気に成長しだした頃。
もはややりたい放題。
そんな生活も2年が過ぎようとした頃に地元への転勤を命じられて狂ったような愛知県での生活の幕を閉じる。
実家に戻って三交代で工場勤務となるがその頃すでに借金は300万円を軽く超えてた。
でもなんとも思ってなかったよね。
自分の車好きがもとで、よく出入りしてた車屋さんに友達をめちゃくちゃいっぱい紹介して小遣いもらっていたが、そこの社長から「うちで働きませんか」とオファーをもらう。
やっぱり仕事は客商売のが面白いと思い出していた頃で転職を前向きに検討することに。
細かいローンをいくつか組んでた借金を、会社の組合で一本にまとめたばかりでもし退社するなら全額一括返金しなきゃいけなくなる。
転職は厳しいかな〜と思っていたが時代はまだまだバブル絶頂期。
勤めていた工場がビックネームだったのでそこに在籍しているうちに車を買うって言うことで銀行へ借金を巻き替えることに成功。
銀行で借りた金で会社の組合で借りてたお金を一括清算して会社を退社。
自動車業界へ。
そして親父と喧嘩。
「自分のやりたいよう生きて行きたいなら家を出て生活も自分でやっていけ」って言うから「上等や」って啖呵切って家を出て、お世話になる車屋の社長に保証人になってもらってアパート借りて一人暮らし。
思えばここが自分の人生の大きな転換期やった。
ほんまのほんまにお金がなかったけど楽しい毎日やったな。
なんせ300万以上の借金抱えてるからね。
中古車屋での仕事は華やかそうに見えるかも知れへんけど、仕事の70%は車の掃除や商品化への仕上げ作業。
20%は修理。
残りが営業やけどなぜかめちゃくちゃ車が売れた。
中古車屋での仕事は最初は丁稚奉公みたいなもんやから固定給はほんま少ないけど車が売れた時のコミッションが大きかったので、車が売れれば売れるほど給料は増えるシステム。
車が売れると事務作業が増えたりして昼間の作業ができへんから夜になってからひっそり作業するわけなんやけど、もう時効やから言うけどメインの作業はメーターの巻き戻し。
車屋業界に入って一番最初に覚えた仕事。
もう何台巻いたかわからへん。
でもこの作業をやってたおかげで他所でメーター巻かれた車は見分けがつくようになったよね。
車査定する時の知識はメーター巻き戻し作業によって飛躍的に伸びたね。
でも自分の友達に売る車は一台もメーター触ったことはなかったな〜
いつか独立する時に信用してもらえへんようになるのが嫌やったんやろね。
そんな日々を送りながら中古車業界に入って一年が経った頃かな、繰上げ返済で借金全額返した。
今考えるとほんまようやったなと思う。
節約に節約を重ねて、車売ってもらえるコミッションは手をつけやんと全部貯金して。
アパートに帰っても電気代勿体無いからって電気もつけやんと生活してたし、朝飯は抜きで昼飯は会社で用意してくれる弁当。
夜はスーパーが閉まるギリギリの時間を狙って買い物に行って見切り品のキャベツ買ってご飯に乗っけてとんかつソースかけてソースカツ丼のカツ抜きしてみたり、マヨネーズと醤油かけてみたりして凌いでたよね。
いまでもキャベツご飯に乗っけて食べると懐かしくって涙出そうになるわ。
当然米買うお金もないから昼間に実家に忍び込んで米とか冷蔵庫の中の食料盗んで帰ったりしてたわ。
たまに友達が遊びに来てくれるときも「米わけて〜」って言ってお米もらってたしな。
ほんまよう頑張った。
借金を返し終わった頃かなあ、車屋の社長とコミッションのことで揉めてその会社を辞めることになった。
お金のことで揉めたくないけどお金のことで問題起こると気分良く仕事できへんもんね。
自分みたいなのを拾ってくれたことにはほんまに感謝しとるけどね。
その後、同業の近所の車屋へ働きに行くことになった。
最初の社長が生真面目でほんま細かい人やったけど、今回の社長は超どんぶり勘定で適当な人。
相対的な二人の社長の元で仕事を学べたのはほんまよかった。
いろいろあったけどその会社も結局コミッションのことで社長と揉めて辞めた。
まあ約束通りにお金もらえへんだら仕事したくないよね。
車屋業界で3年ほど丁稚奉公させてもらって、いよいよ独立しようってことになった。
そのころアパートで一緒に住んでた年上の女性がいたんやけど、アパートをでて引っ越す時に結婚して家を買った。
その時もう24歳になってたな。
家を拠点にして自動車ブローカーとして自由に動き回って車を売ってたね。
ちょうどバブルがはじけた頃やったけど田舎ではまだまだおかまいなしに車は売れた。
ブローカーとして動いて一年が経った頃かな、土地を貸しもらえるって話が舞い込んだ。
お店を出すなら商品も並べて華々しくオープンしたいな〜と思って、親父に頭下げて保証人になってもらって国民金融公庫からお金を借りた。
親父とは自分が結婚した時にちょっとだけ仲直りしてたから頭下げたら渋々オッケーしてくれたな。
そして50坪の土地を借りてお店をオープンしたね。
事務所はコンテナハウスやしトイレは簡易。
今考えたらふざけた車屋やけど真剣やったよね。
時を同じくしてすれ違いまくりの嫁と離婚。
なぜか子供もおらへんのに揉めに揉めて離婚調停までした。
人生何事も経験やけどもう二度と離婚調停は行きたくないわ。
25歳でオープンした車屋は上々の滑り出しで車はめちゃめちゃ売れたね。
たかだか25歳の若造が派手にやるから色々めんどくさいこともあったけどほんと人脈に恵まれて色々な先輩に助けてもらった。
お金もしっかり稼げたし、プライベートも充実しまくりでほんと充実した20代後半を過ごしてたんやけど30歳になるちょっと前ごろやったかなあお店に税務署がやって来たわ。
めっちゃびっくりした。
自分ごときのところへ税務署がわざわざ来るんや〜と思って。
人生初めての税務調査はめっちゃ勉強になった。
結構な金額いかれたけど勉強になった。
当時は税理士に決算お願いしてたんやけど税務調査になった時に見事に手のひら返されたな。
税理士も所詮税務署となあなあなんやなと思ったね。
税務調査が終わった時に自分の会社の事務員と相談してもう税理士は使わへんことにした。
自分たちで全部やろうってことになったんやけど結果それで十分ってことにも気づけた。
30歳になった頃にその頃付き合ってた女性との間に子供ができて二回目の結婚することになった。
いわゆるできちゃった結婚。
これからの人生は心を入れ替えて子供のために生きていこうって本気で思ったけど、天下の遊び人がそんな気持ちを長続きできるわけもなく笑
その頃、商売は相変わらず好調やったわけやけど今のお店がちょっと手狭に感じて来てた。
借りてた土地は50坪しかなかったから車をたくさんストックすることもできへんだし、でもお客さんはどんどん増えて売り買いする台数もかなり増えてたいへんやった。
そんなタイミングでとあるテナントビルが売りに出るからどうですか?って話をもらう。
昔から知ってる物件で理想的やな〜と思ってたからすごくびっくりしたけど即飛びついた。
31歳になった頃やったな。
銀行で融資も取り付けて無事に自己物件取得。
店舗は結構でかい建物やったけどあんまりお金をかけたくないから外装の塗装と入り口のやり直しくらいだけ友達に外注してあとはすべて自分で手作業。
昼間は旧店舗で仕事して夜は新店舗の改装。
ほんま大変やったな〜
一ヶ月〜二ヶ月ほど時間かけてようやく完成。
新店舗での新たなるスタートとなったわけです。
新店舗での売り上げも絶好調で仕事はどんどん拡大していったけどけっして本業に関連しない副業には手を出さへんだ。
年の近い同業者の友達も多かったんやけど、事業が成功してある程度の金を掴むとなぜかみんな本業と関係のない副業に手を出して失敗。そして居なくなるっていうのを数多く見て来た。
あくまでも本業を柱に事業拡大していったわけやけど結果これが良かった。
家族全員自動車関係の案件は全て自分に丸投げしてくれるお客さんがめちゃめちゃ増えて売り上げがすごく安定した。
新店舗での売り上げはどんどん安定していったけど家庭はどんどん不安定になっていった。
二人目の子供もできて何年か経った頃に二回目の結婚生活も終焉を迎えることになった。
タイへは30代になって同業者に誘われて遊びに行ったのが初めて。
それまで海外旅行といえばグアムやハワイあたりばっかりで主にビーチリゾートでのんびりと免税のブランド物を買い漁るってのが定番やったんやけど初めての東南アジアは目から鱗やったな〜
当時はプーケット経由のバンコク行きの便しか無くて、初めてのタイもプーケットやった。
想像しとった街と全然違ったね〜
海は綺麗やったし人間も陽気やし夜遊びも楽しかった。
何より物価の安さに驚いた。
そしてプーケットからのバンコク。
もう大都会過ぎてビビったわ。
すっかりハマった。
その後もいろんな国に旅行に行ったけどやっぱりタイが楽しくて大好きやったな〜
40代になっても商売は相変わらず好調で特に問題もなかった。
海外にも頻繁に出かけるようになった。
いつの頃からか
このまま車屋で人生終わるんかな〜
海外に住んで見たいな〜
と考えるようになって来てどんどんその気持ちが大きくなっていった。
どうすれば海外に住めるのか。
海外で生活するために何をすればいいか。
金銭的な問題をどうクリアするか。
言葉はどうするのか。
そんなことばっかり考えてた。
世間の会社員が定年退職する年齢まで辛抱してお金を貯めて、引退したら海外移住するって考えるんが普通なんやろうけどそれはなんか違うというかそれではあかん気がした。
60代になって仕事も全て手仕舞いして住んだこともない海外に移住して、うまいこといかへんだ時にどうするのか?
60代になっても今と同じ体力を維持できてさらにいろんなことに果敢に挑戦していけるのか?
語学を学んで吸収できるのか?
海外に出かけるたびに現地で生活する人に会い話を聞き自分なりに考えた結果、本気で行くなら1日も早く海外に出た方がええんじゃないかという結論にたどり着いた。
生活や言葉は海外に出てからでもなんとかなるやろうから金銭的な問題だけなんとかクリアにしようと思った。
自分なりに試行錯誤を繰り返してようやく方向性が決まって行った。
文字にしたらほんの一行やけどほんま試行錯誤の繰り返しやった。
そして46歳になった年の6月3日に日本を出てタイランドはプーケットへ移住することになった。
移住の日を迎えるまでに一番しんどかったのは今まで好意にしてくれてたお客さんに閉店を伝えることやった。
希望されるお客さんには知り合いの仕事をきっちりこなしてくれる車屋さんを紹介したり、自動車保険関係も掛け替えてもらったりと、ほぼ最後の一年は収入も無しでお客さんのケアだけした。
プーケットへ移住して最初の一年は語学学習の毎日。
毎日毎日タイ語の読み書きに時間を費やした。
タイランドはちょうどその頃クーデターが勃発してて、ちょうどプーケットに移住した日にプーケットの夜間外出禁止令が解かれた日やった。
でもクーデターの影響で以前まで語学留学やと二年もらえてたビザが六ヶ月しかもらえなくなったし、日本円ータイバーツの為替も超円安に振ってて、想定してたのと全く違った環境になってた。
それでもなんとかなるのがタイランドの生活。
二年目、三年目は現地の会社で仕事。
四年目は転職して日本料理屋兼ゲストハウス。
五年目は現地で会社の立ち上げ。
六年目は現地会社のマーケティング。
七年目にはプーケットからウドンタニへ引っ越し。
そして現在(2022年7月)へ
波乱万丈な人生を好き勝手に生きて来たけど、幸せな事にしんどいことやめんどくさいことに鈍感でどんな状況や環境も楽しめる性格はひょっとしたら海外生活に向いてるのかもと思ってます。
当初、数年だけ住んで次の国へ移動しながら生活していこうかと思ったけど、まだまだタイランドにいそうです。
この先どんな波乱万丈が待ち受けてるのか楽しみでならんです。
管理人「魔王」の名前の意味
「魔王」って書くと地獄の閻魔大王のイメージになるかもですがそんな強面な意味は全く無しです。
タイ語の「เมา(マオ)」をもじって「魔王」に。
タイ語のマオは「酔う」の意味なんです。
酒が大好きな管理人にぴったりかと笑
とは言え、常に酒に酔っているわけではなく、人生いろんな物事に酔狂していきたいって気持ちを込めてます。
って事で
これからも「魔王」の人生を生暖かく見守っていただけると最高に幸せです。
自分の人生に絡んで来てくれる人は大歓迎です。
最高の作り笑顔でお待ちしてます。
一緒に人生楽しもうぜ